昭和51年08月15日 特別奉修委員
末尾途中切れ
信心の究極のところは、安心のおかげを頂くと言う言である。その安心があの世にも持っていかれ、そしてその安心の徳がこの世にも残しておけるというほどし。信心をさせて頂いとりますと、その心が安らぐそしてま安心、どんなに心配な事があってもお取次を願う、親先生がこう言うて頂いたと、さしもの心配も薄らいでくる。いやもう任せる気になってから、いわゆる心配がここに置いて帰られる。そういう稽古がやはり繰り返し繰り返しなされていかなきゃならない。
平穏無事な時に安心しとりますというのは、私はそれは本当の安心じゃない。そこに何か起こっても、いやどんな事が起こっても、そこにまぁ微動だとしない、神様を信じて疑わない心というものが、出けて来ると言う事を願いとするのですから、もうこりゃ生涯かけての事ですね信心とは。これは喜び信心のこの喜び、さぁお願いをしておかげを頂いた、やれ嬉しやと言うのはたいして有り難いというのじゃない。それはもう自分の願が叶うたんですから、子供がおやつを貰うて嬉しいなというておるのと同じ事。
だからとは反対の事であっても、やはり有り難いという心の開けて来るこそ本当の喜び。「真に有り難いと思う心、すぐにみかげの始め」と仰るが、真に有難いというのはそう言う事。先日、まこの人の全財産じゃろうと思われるお供えをして、それに血を水に変えて下さいとかいてあった。私は意味が分からない、何か確か素晴らしい宗教的な言葉ではないかと思うて、血を水に変えて下さいと、どげな事のと私が聞かんでん、私は知らなくても神様がご承知なのだから。
どうぞ本人のしかも自分の全財産だろうと思うお供えをしてから、そうありたいと一生懸命に修行をし、一生懸命に願っておるのだから、本人の願いが成就致します様にというお願いをさせて頂いた。そしてその事をお願いさせて頂いとりましたら、この酒樽に酒が一杯入っとる上に氷が張ってる。氷をこう打ち破って中をこうやって、すくうて飲んだところが、はぁもう水の様になってる。あの皆さんは酒が凍ったら水になるち言う事は知ってあるですか。
私が北京で酒屋しとる時分にね倉庫が足りませんでしたから、二十石あの大きなだぶす桶、あれが一本まると凍ったです。北支で。そしてもうアルコールは抜けてしまうです。どう言う様な訳か知らんですけれども、酒が凍ったらねあの水になっとるです。こりゃサイダーの様なもんもそうじゃないでしょうかね。冷凍室なんかで凍る事があるでしょうが。そすと凍った氷は水のごたるですもんねやっぱ。本当にやはり血が水になるというほどしの事は、大変な事だと私は思うたですね。
だからやはり凍り付くほどしのところを、通らなければ血が水になると言った様な、大変なおかげにゃなってこんだろうと、私は思わして頂いたが。確かに私共が有り難いというておる有り難いではない、もうひとつ向こうの有り難いを求めると言う事。私共が信心しよるけん、もう何がどんな事があっても親先生にお伺いをするし、親先生がまぁ平気な顔でハイハイていうて頂いたから。心配いらんじゃろうと思うから安心しとりますち言うのは、ほんな親先生がおらんごとなったらもう心配せんならん。
これはどこまでもだから、自分のものでなからにゃならないと言う事になるです。私はまぁ修行中の時分に、福岡から善導寺に参って来とる時に、神様が傘を持っていけと言われる時には、必ずどんなお天気の日でもお湿りがあった。もう今にも降りそうにあっても傘はいらんと仰ると、やはり雨は降らなかった。だから近所の人達が言よった、私が高ぼくり履いて行きよる時、あらお父さんが高ぼくり履いて行きござるけん雨降るばいち。こげなお天気の日に傘持って行きござる。
あぁ違わんごと雨が降るじゃろうと言いよると違わんごと降る。もう今にも降りそうにあっても、神様が傘はいらんと仰りゃもうそん時には、はぁ今日は降らんなというのではほんなこつじゃない。もうそういう時に例えば神様が持っていくなと仰るから、持っていかんのであって。途中でどういう土砂降りになってビョショ濡れになっても、ままよという心なんです。それが安心です。親先生が右と仰ったから右の通りしたら、却って左になったとと言う様な言ではだから本当の安心ではない。
お伺いをさして頂いても、右と願った事がね、今日朝お参りになっとります、森から竹田という女のお医者さんです。往復五時間から掛るそうですからね。昨日もお参りになって、今日もお参りになった。もうそれは唯もう有り難いの一念で参って見えよるとじゃろうと思うです。この頃からある事情で七日迄にどうでんおかげ頂かんならん事があったんです。もうお話を聞いただけでも、本当にあのうはぁそりゃ大変なご心配でしょうという様な事じゃった。ところがおかげで七日の朝帰解決した。
そう言う様な事があって、この神様の有り難きというのが、だんだん分かりかかっておられるのだと思うんです。でなかったらとてもあの今日お参りになって、あのお年で自分で運転しておいでられるんですからね。だからせめてあちらは大変山の中ですから、あのうもう雪はあのう冬は雪が降って自動車が滑ってたまらんから、せめてこの夏の間だけでも、しばらく修行させて頂きたいというて、それこそ大変な沢山な患者を相手にしての、大変な御用をなさっておいでられるのですけれども。
そう言う位な気持ちで、合楽に向こうて来ておられるのです。今日お盆で休みだったから、朝参りさして頂いたというて今お届けがありましたがね。だからそれは成る程願えば本当に、もうこれは奇蹟ち言いわにゃおられないというおかげは頂けるです。だからそう言う事だけが信心だと言うたら、信心はたいした事はないと思うですね。今から競輪に行きよりますから、どうぞよろしくお願いしますといって、行くたんびにお願いした通り競輪で儲かるならあんたもう、もう仕事はしゅうごつなかごつなってくる。
だから神様という方は、そういうただ神様が言うならば分からない人に、これが神様の働きぞと見せて下さるのが、私はおかげであり奇蹟であると思うです。本当の神様の心というのは、氏子が何時もが喜べていて、何時も安心しておれて、しかもその安心とか喜びには、人間の幸せの条件が足ろうて来る、おかげが頂けれると言う事を、確信して行く生活が出ける事が神様の願い。そこで私共が今申します様に、本当の安心を目指さなければならないし、本当の喜びを目指さなければならない。
願いが成就した、はぁやれ嬉しやというのではなくて、お伺いをさして頂いて、今日は傘を持っていけと仰ったばってん、雨は降らじゃった。神様はしらごついいなさったというのじゃなくてです。何処に神様のご都合があるか分らん、今日は傘はいらんと仰るから、傘は持ってこなかったら、途中で土砂降りになった。びょ濡れになった神様もそういう時はやっぱすらごつ言いなさる、と言った様な事では信心にならん、そこをね結局私共の心の中に鍛えていく心というのは。
何時も「ままよ」という心、しかもお取次を頂いて、お願いをさせて頂いての事ならば、右が左になろうが、左が右になろうが、それがおかげとして頂けるところまで、信心を高めていかなければいけない。そこにはもう絶対のおかげが頂かれるです、間違いないです。だからそういう絶対のおかげを、例えばそんなら久留米の佐田さんなんかは、毎日毎日絶対間違いのない働きの中に、一家中が浸っておられる様な感じですよね。本当に神様の間違いなさに恐れ入ると言うわけです。
だから良い事につけ悪い事につけ同じです。今日も丸少の昨日から合宿ですから、お母さん達が皆んなご用にこんならん。さっきもその朝の準備をするとにキャベツを切りよんなさった。もう大体この頃体がこう大変こう悪うあんなさる、だからしるしい訳です。だから、丸少お母さん達が早よう来てから、早うチョイト具合はどげな風ですか、と覗いてくれりゃよかのにと思うた途端に手切ったちいうんです。もう本当に神様ちゃもう恐れいってしまうち、そげな思い方でお前信心かと神様が言いよんなさるとです。
それで夫婦ですぐお届けに見えました。だから素晴らしいことに一分一厘間違いのない働きを頂けれる代わりに、もうちっとここに思うた事でもね、神様は許しなさらんと言った様な感じがするです。それはどう言う事かというと、より本当の有り難さを与えたい、より本当の安心を与えたいという、もう信心が協力していうならば頂いていくのが、私はお道の信心だと思う。神様も鍛えて下さる事には、こちらも鍛えられる信心の喜びというものを、やはり身に付けて行かなければいけない。
これはやっぱりそういう時代でしたから、今日は傘を持っていく様にと頂いたから、傘を持って電車に乗らせて頂いた。勿論お天気はカンカンのお天気だった。けれども傘を持って行けと言われるから持っていく、ところがそんな訳ですから西鉄の久留米に着いて降りた時には、そのう傘を電車の中に置き忘れとったです。あぁそうだと思うたけれども、だから駅の方にお願いして、それから大城の方から、善導寺の方へ歩いて来る訳なんです。そしたらねそれこそ一典俄にかき曇って来たんです。
はぁ神様がやっぱり今日は傘持っていけと言われたが、こりゃ途中で降るかなぁと、本当に迂闊に忘れて来た事を、神様にお詫びさせて頂きながら、お詫びさせて頂きよったら、神様が色々と話しかけて下さる。さぁこんなに雲って来た傘が無いもう不安であろうがと仰る。傘を持っておりゃ、どんなに一典俄にかき曇って来ても、傘があるからというので安心じゃとこう。
御教えに「この方の道は傘一本で開ける道」という意味が分からなかった。ははぁこの方の道はこの傘一本ということは、安心と言う事だなぁと言う事で、それ以来あのご理解を頂くときは安心と言う事。傘一本傘のお知らせはだから安心という風にここでは言うわけです、どんなに一典俄にかき曇って来ても傘を持っておれば不安ではない。けれども傘を持たんと、何時降りだすじゃろうかという不安がある。信心にはそういう一本の傘を持っとかにゃ何時っも持っとかにゃならん。
どんなに例えば降ってこようが照ってこようが、傘を開けばもうそこに安心がある。濡れんですむ、というおかげが受けられる。その傘一本ためにはね、その一辺傘がねバラバラになって、あの雨風なんかに会いますと、あれが反対にバアーとひっくり返ってしまいましょうが、そしてバラバラになってしまう。そこでそのバラバラになった傘を上を取ってです、もう降っても濡れても仕方がない。
もう濡れる覚悟で、そしてなら傘の柄を杖に、そして次に頂いた新たな傘が、本当の安心じゃと言う様なご理解を、ちょうど大城から善導寺の間にズーットいろいろと細々と頂いた事があります。だから傘を持っとるから安心、ただ平穏無事だから安心、何でも無いからお願いした事が、お願い通りになったから喜ばしやと言うのではなくてね、それが例えばその傘が一辺ひっくり返ってしまって取れてしもうて、その傘の柄を杖にでもしなければ、いわゆる「神に杖をつけば楽」と仰る。
神様を杖につかなければ、やっていけない程しのところを通って抜けて、次に頂いた傘が本当の安心です。結局だから通るところを通らせて頂くと言う事は素晴らしい事なんです。その通るところを通らして頂いとるのを、あぁきつい術ないではいくら通ったっちゃ同じこつ。だからその人が通りえない様な所を、杖をついて通らせて頂く人が、もう辛抱しておれないというところを、辛抱し抜かせて頂いて始めて、私は本当の喜びに触れる事がでける、又は本当の安心に辿り着く事が出来ると言う風に思うです。
ですからここを目指す事ですから、信心は限りがない、成程一生が修行じゃと。だから折角ならその修行が楽しいもの、有り難いものになってこなければなりません。血を水にすると大変な言であろうと思うのですけれども、例えばならお酒でも一遍凍ると水になってしまう。その氷凍てつく程しの時が大事な時。そん時がいよいよ水になって行きよるという事になりますよね。だからそこんところを大事にして、ただ苦しいところを通り抜けて、おかげを頂いたというだけでは、おかげに留まります。
その苦しいところを辿っている内に力を受ける。あの苦しいあの時に私はお徳を受けたんだなあとと言う様な、おかげを受けなければ、いわゆる信心の究極の所を、喜びに浸れる、いうならば安心立命、どんな場合であっても安心しておれれるという、まぁリラックスな心の状態に、シャープなおかげと神様は仰るのですから、
末尾途中切れ